空を見上げる。恐ろしくなるぐらい、真っ青な月が真昼の青空にとけきることができずに浮かんでいる。その色は、空よりもずっと青い。あまりにも蒼くて涙が出そうになる。月が、こんなに青くなったのは、ほんの数日前。地球は、人類に見捨てられた。月を地球化して、人々は地球を去った。一部の人間を除いて。地球から、離れることができなかった理由は、この惑星を愛していたからというよりも、もっと簡単な理由。
『そこまでして、生きたくなかった』
友人が、少ないわけではない。人並みに恋人もいた。それでも、何故だか生きる、ということに一所懸命になることができずに怠惰な毎日を過ごしていた自分だから、それはひどく当たり前の選択だったのだが、そんな自分を見て何人かは泣き、何人かは説得しようとしてくれた。けれど、誰も自分が語るべき言葉をもっていなかった。あるのは、使い古された音の羅列。それは自分の耳には、心には一切響いてこなかった。その時感じたことといえば、涙って、人によって色が違うんだなあ、といういささかピントの外れたことだけ。やがて、誰もが説得をあきらめ、幸いにも元恋人には新たな恋の芽が生じていたので、とりあえず、私は何の気兼ねもなくこの星に残った。
それでも、昼間に見えるあの月は私の感傷を呼び起こす。真昼の月が、好きだった。青白く、ぼんやりと空に溶けている、あの月が好きだったのに、それはどこにももうない。ふとあたりを見渡すと同じように空を見上げる人がいた。その人は、月を見て笑っていた。地球に残った人で、月を見て笑う人を見るのは初めてだった。そのせいだろう。初対面にもかかわらず、私はその人に話しかけた。
黒のよく似合う人だった。すけるような白い肌はどこか、真昼の月を連想させた。
「なぜ、笑うのですか?」
声をかけたことに驚く様子も見せずその人は歌うような調子で答えた。
「幾つ、地球を作れば気がすむんだろうと」
よく通る、透明な声は皮肉をたっぷり混ぜ込んで吐き出した。
「地球を、幾つ・・・」
ここまで、地球が壊れたのは、もちろん人類のせい。それに関する具体的な解決法を考えることを放棄して外に救いを求めた。一時的な逃避は、より問題を大きくするだけだと、誰もが思いながら、それでも誰も解決しようとはせずに。日々の生活におわれるふりをして。かたちだけ、環境問題に取り組んで。挙句、太陽系の惑星全てを地球化しようとしている。すでに火星には住宅が立ち並び、木星以下のガスでできた惑星に住む研究もあと少しで実現化するだろうと言われている。だから、その人は皮肉な口調でそう言ったのだろう。
「私が、笑う理由はほかにもある。何故、人はわざわざ月に住むんだろう? あの小さな星に住む必要がどこにある? 資源も、決して豊富ではないのに」
「・・・地球が、見えるからじゃないですか?」
「見捨てた人間が、何を言う?」
今度は、怒りがその目に表れた。それなのに、私は、綺麗だなあとつい見入ってしまった。
「・・・あなたは、不思議な人間だな。普通、怒っている私を見れば誰もがおびえるのに」
「え? そう・・・ですか。でも・・・綺麗だから・・・つい」
「綺麗? 誰が、私が?」
そういうと、その人は初めて私の顔をまじまじと見た。そして、ふうっと溜め息をつきすごく優しい顔をした。すぐに、泣きそうな顔に変わったけれども。
「・・・もう少し、早くあなたのような人間に出会えれば、少しは、違っていたかもしれない・・・」
「どうか、したんですか。すごく・・・なんていうか、痛そう」
「そう・・・確かに痛いよ、心が、とでも言うべきか。全てのものの心は私につながっている。今、あなたの心が入ってきている。ひどく、痛い。のどが、からからだ・・・」
「そんなに、かわいていますか、私の心は」
「・・・あなたは、きっと自分の心があげる悲鳴が聞こえる人間なんだ。・・・いや、ほかの者たちの悲鳴すら。だから、生きるということに積極的になれないんだ」
「買いかぶりすぎです」
「そうかもしれない。それでも・・・」
その人は、弱々しい笑みを浮かべた。
「・・・いや、いまさら何を言っても、同じことか・・・。明日、明日がくれば・・・」
「?」
その人の、言葉は、きちんと言葉だった。
翌朝、窓越しに空を見上げる。空が、燃えていた。大地が、最期に声を限りに歌っていた。思わず、外に飛び出すと、それを待っていたように昨日の人がいた。
「・・・こんにちは」
「・・・あなたは・・・」
何者ですか、そう問いかけてすぐにやめた。この人が、何者なのか、そんなことはどうでもいいことだ。今日は、最後の日なのだから。
「昨日・・・言っていたのはこのことだったんですね」
「・・・ええ、綺麗でしょう、この、深紅に染まった空は」
言われて、再び空を見上げる。そして、ようやく気づいた。
「月が・・・ない」
あるはずのものがない、ということはただそれだけで人をこんなにも不安にさせるのだろうか。ひざがおれ、呆然とする。その人は、誰に言うとはなしに、呟く。
「月はね、孤独を嫌う。地球が滅びるのを見るのが忍びなくて、それで自ら命を絶った。そして、それに耐えられず、この地球も・・・」
「・・・ああ、そうか・・・」
同じなんだ。同じになってしまったんだ、月と、地球は。だから、一緒に・・・。
「ほら、もうすぐ・・・」
最期に見た、白い月と青い空はきっと、この星が見た幸せだったころの夢、なんだろう・・・。