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青い空と海と白と

刹那。白い羽が舞い散った。

その鮮やかな白が。

夜の闇に吸い込まれ…。

出会いは海だった。人気のない冬の海で少女はただ、佇んでいた。気づいたら、彼がいた。
「…貴方…誰?」
「B。アルファベットの二文字目」
「B?」
少女は笑った。彼が冗談を言っていると思ったのだ。だが、彼の目は冗談を言っているようには見えなかった。ふっ…と笑うのをやめた。
「私は、碧。天野碧」
「そらのあお? …いい名前だね」
岩場から飛び降りると彼はもう一度、かみ締めるように呟いた。そして、ふっと微笑んだ。
「何をしてたの?」
「別に…。ただ、海を見てただけ」
「どうして?」
「…ただ、なんとなく」
小さな、罪悪感。嘘。そう、それは嘘だった。でも、本当でもあった。彼女は家にいたくなかった。
家に帰っても、誰も、何もいない。父親も、母親も。あるのはインスタント食品の山と、小さなさぼてんが一つ。メモさえもない。
「それならいいけど…。淋しそうだったから」
全てを、話してみようか。ふと、そんな衝動に駆られた。Bの目は澄んでいて、深く吸い込まれそうな、空の青。そして、海の青。
「遠くへ…いきたいな」
「え?」
「どこか遠くへ行きたくならない? 海を見てると…」
Bは碧の目をのぞきこんで。
「連れて行って、あげようか」
波音が、辺りに静かに、響く。ただ波の音だけが、静かに。
「遠くへ…?」
「そう、遠くへ」
月は細く、今にも消えそうな白い光が星の光にまぎれこんで。
波を照らしだす。光が波で遊んでいるのか、遊ばれているのか。
「明日…もし、碧が、ここに来てくれるのなら。連れて行ってあげるよ」
「明日…? …今じゃだめなの?」
「だめだよ、碧。考える時間が必要だろう?」
「…なんで、明日、なの?」
「明日は新月だろう? 星が強くなる。星の光だけが、辺りを照らすことが出来る。…明日、街中の明かりが消えたら、それを合図にここにおいで」
「新月なら、毎月あるじゃない」
「明日。それが最後のチャンスなんだ」
意味ありげに微笑むB。碧には何がなんだか分からなかった。
「…私、そろそろ帰る。寒くなってきたし」
「そっか」
今度は、満面の笑顔で。
「また明日」
明日、少女が来ることを少しも疑っていない顔だった。

鍵を差し込んで、扉を開けても相変わらず家の中は真っ暗だった。窓から海のほうを眺めると、あんなに寒く、冷たかった体が火照るのが分かった。火照りを癒すために、冷蔵庫から冷たいミネラルウォーターを取り出し、口に含む。少し、ほっとした。
(明日、どうしようかな…)
そう考えている自分に気付いて、彼女は少し驚いた。何を悩むというのだろう、あんな作り話に。だが、彼の目は真剣そのものだった。その目が、気になって仕方なかった。
(もしかしたら本当かも知れない…)
バカげている、そう思いながらも完全には否定できない。
(遠くへ…か)
時計を見ると、まだ八時だった。
(今日、帰ってくるのかな、二人とも…)
やかんに水を満たし、火にかける。もう一口、ミネラルウォーターを飲むと、何故だか涙が出てきた。淋しかった。最近はあまり感じなくなった筈の感情だった。
ここ、二三年のことだろうか。仕事が忙しいといって両親が家にいることが減ったのは。毎日のように残業や、出張で。

『ごめんね、ママ今日も出張なの』
『大丈夫ヨ。まま。私ソンナニ子ドモジャナイワ』
『一人で、大丈夫かい』
『一人ナンテ、ドウッテコト、ナイワ』
嘘、違ウノ。私、淋シイノ。…一人ハ、嫌ナノ。ままニハ、分カラナイノ? 一人ノ夜ガ、ドンナニ長イノカ。ぱぱモ、ワカッテクレナイノ? ナンデ?

そんなことを考えていたときもあったな、なんて冷めた心で思った。彼女は割り切ってしまうことにしたのだ。親子とはいえ、所詮は他人。完璧に分かり合うことなどできはしない。そうして、彼女は自分を守るために心を厚い壁で覆うことに決めた。人間の弱さと、そういいきってしまうのは簡単だ。だが、その頃の彼女に、他に何が出来ただろう。まだ、幼かった彼女に。
(行こうかな、明日…。二人とも、私がいないほうが都合がいいんだろうし…)

珍しく、両親ともにいた、夜。
「このままじゃ、だめね、私たち」
「僕たちは…夫婦じゃないほうがきっとよかったんだ」
「そうね。貴方のことは好きだけど、けど…」
「お互いのことだけを思うのなら、僕らは…。けど、そうしたら碧はどうなる?」
まだ、二人は何かを話していたようだった。しかし、碧の耳には届かなかった。

離婚話。
信じたくなかった。けれど、心のどこかでやっぱり、そう感じているもう一人の彼女がいた。

(このままじゃ、いつか…。だったら、私は…)

次の日。誰かがいる気がして目が覚めた。彼女の母だった。
「お母…さん」
「おはよう。そんなところで寝ると風邪ひくわよ」
「眠ってから言っても意味ないと思うんだけど」
「それもそうね」
母はいそいそと朝食の支度を始めた。彼女は寝ぼけ眼で母の後姿をおった。疲労の色が見え隠れする横顔。だが、昔よりも生き生きとしているようにも見えた。
「ハムエッグでいいわね?」
「朝食ぐらい私作るのに」
「いいのよ、貴女は座ってなさい。たまには、母親らしいことさせてよね」
そういわれると返す言葉もなく、まいいかと思い直して椅子に深く座りなおした。
久しぶりの母の後姿。もはや、懐かしいともいえる、が、彼女には何故だか息苦しい。母親を見ると、どうしてもあのときの会話を思い出さずにはいられないから。頭 の中に、浮かんできてしまうから。二人は、子どもが、彼女が何も分かっていないとでも思っているのだろうか。どんなに巧妙に隠したつもりでも、分かってしまうのに。
そして、そこから狂いだしていくのに…。
「どうしたの?」
「え?」
「難しい顔してる」
「そんなこと…ないよ」
…親とはなかなか侮りがたいものであるらしい。そうこうしているうちに朝食の用意が出来たようだ。
「いただきます」
彼女は母の顔を見た。それは、ハムエッグが焦げすぎていたせいもあったけれど。
「珍しい…ね。今日、おやすみ?」
「そうよ。久しぶりに買い物にでも行こうと思って。碧も行く?」
「私は…いいよ。宿題もあるし…」
「そう?」
残念ね、そういいながら母はコーヒーを啜った。
「うわ、ニガ〜イ。碧、貴女砂糖入れないの?」
「え? うん」
「胃に悪いわよ」
言いながらどぼどぼと砂糖を入れ、母は飲み干した。そっちのほうがよっぽど身体によくないんじゃないと、そう思いながら彼女は新しくコーヒーを入れようと立ち上がった。
「ねえ、碧…」
いつも気楽そうな母親の声が、無機的なものに変わった時、碧は思わず震えがきた。全身が、硬直したようになる。危うくコーヒー豆をばら撒きそうになったが、必死に平静を装う。
「な、何…?」
「今夜…、大事な話があるから、家にいてね」
「大事な話?」
なんとなく、想像はついた。それでも、あえて口に出してみる。聞きたくないと、そう思いながら。
「パパが帰ってからね」
案の定、そうはぐらかして、母親はそのまま出かけていった。

決定打。

日暮れまで、まだかなりある。それまで何をしようか、そう思いながら海を見た。海には今日も人影はなく、寂しい冬の海。Bもどうやらいないようだ。
(停電するの…いつかな。どうせなら、パパたちには知られずに行きたいな…)

少しだけ、泣いた。この家で過ごすのも今日が最後かもしれない、そう思うと、思い出があふれてくる。

そして、夜が来た。

月は出ない。やはり今日は新月なのか。いつもの星の光よりも、なぜか煌々と光輝いているように見える。
小さな鞄をぶら下げて、海までの道を歩く。その道は彼女の過去の軌跡であり、そして未来へと続く道でもあった。街の灯は、まだ明々と輝いている。だが、碧は家に一人でいることが出来なかったのだ。夜風は冷たく、だが今の碧の気分にはなんとなくあっていた。
街の灯が消えた。賑やかだった街が水を打ったように静かになった。だが、普段なら聞こえてくるはずの喧騒は、未だ聞こえてこない。
「街は眠りについたよ」
聞いたことのある、声。
「B!」
「来て…くれたんだね」
嬉しそうな彼の声に碧は胸が痛んだ。そんな彼女を見てBは言う。
「迷ってる?」
「え?」
何故…分かるんだろう。
「碧は…やさしいね」
そういってふわっと微笑む。
Bの柔らかな髪に星の光があたって…綺麗、そう思った。波の音と心臓の鼓動が微妙に同調(シンクロ)して…碧は何故だかドキドキした。
「私…やさしくなんか、ないわ」
自嘲の笑みを浮かべる。
「両親のこと…考えてるんだね」
「……」
「それと、不安に思ってる。僕が一体誰なのか。ついていっても平気なのか」
「…そんなこと…」
碧に、岩に座るよう促す。二人はそろって海を見つめる。
「僕は…本当に遠くから、来たんだ。多分、君が考えているよりももっと、ずっと遠くから。いつか、誰かに会うために。それだけを考えて」
「Bは…外国の人?」
「そうだね…」
Bはあいまいに微笑んだ。
「誰かって…誰?」
「…笑わない?」
碧は深々と頷いた。それは、Bが初めて見せるはっきりとした感情…照れだった。
「僕が、心から大事にしたいと思える…そういう人」
まぶしそうに目を細めながら、その目はしっかりと碧を、碧だけを見つめている。
「君に逢ったときに、僕は思ったんだ。きっとこの人だって」
星が、静かに二人を照らす。月とは違ってとても静かに。
「碧…僕と一緒に…来て、くれないか」
「私…は…」
碧が次の言葉を言おうとした時。
「碧!」
「え…パパ、ママ、どうして…?!」
なるべくなら、会いたくはなかった。彼女にとって、二人は代わりのない、大切な両親であることは間違いなく。ただ、二人に言えば、頭ごなしに反対されるのが分かっていたから。彼女が、彼女自身の考えで決めたかったから。なのに何故だろう。会いたくないと、思うときには必ず、会ってしまうのは。
(なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんで…)
「どうしてじゃないでしょ! 今日はいてねってそう言ったのにこんな時間まで…ママたちがどれだけ心配したと思ってるの?!」
「停電したから、慌てて帰ったら碧はいないし、ママはおろおろしてるしで大変だったんだぞ」
口々に、文句を言い、怒鳴る。碧が口を挟む隙を与えず。碧の言葉に耳を貸そうともせず。しばらく、いつものようにじっと我慢して聞いていた碧だったが、次の瞬間に、頭の中で何かがショートした。真っ白になって、何も考えられなくなった。
「…ょ」
何年間も、ためていた言葉が、一気にあふれ出したのかもしれない。感情のままに、口から言葉がするりと抜けて、思いのたけを吐き出す。ぶちまける。
「普段…私が熱出しても、どんなに、どんなに淋しくて、どんなに、心が痛くて、一人でいたくなくても、二人とも、そんなことは少しも…っ!」
「し、仕方、ないだろう。仕事なんだから」
「仕事仕事っていっつもそればっかり! クリスマスとか、学校の友達が家族と過ごすって聞いて、どれだけうらやましかったか。家族が、全員そろう日、なんて一体もうどれだけ…!」
「碧、もういいよ、泣かないで」
Bはそっと碧の肩を抱き寄せる。そよ風のようにそっと。碧が、ゆっくりと泣くことが出来るように。
「泣いて、なんか…。! …っ」
大丈夫、大丈夫だよ、そういいながらゆっくり碧の髪を梳く。その手があまりにも優しいので、碧は余計泣いてしまう。
そして、気づいた。自分の気持ちに。心のどこかで妙に納得した。何故、こんなにも心が安らぐのか。
(そう、なんだ。私は、Bを…)
分かってしまえば、こんなに安心できるところが他にあるだろうか。息苦しさを感じない、安らげて、あたたかい。そして何より、自分を偽る必要が無い。碧は、初めて自分が自分になれたような気がした。
両親はあっけに取られて碧とBを見ていたが、やがて正気に戻ったのか顔を真っ赤にして怒鳴りだした。
「お前…! な、何だその男は!」
「離れなさい、碧!」
碧は泣き止むと、ゆっくりと顔を上げた。その顔には痛いほどに強い意志がはっきりと込められていた。悲しそうに眉根を寄せて、碧は言った。
「B…」
その一言で、Bはすべてを理解した。穏やかに微笑むと、もう一度、碧を優しく包んだ。
近寄ろうとする両親の身体は、だが意に反して動こうとはしなくて。そんな二人に、碧は小さく笑みを見せて。再び、涙が頬を伝った。

星の光が、二人にふりそそぐ。柔らかな光が辺りを包み。

静寂。

純白の羽が舞い散った。二人は、鳥になっていた。真っ白な大きな翼の、とても美しい、痛いぐらいに美しい二羽の鳥。悲しそうに目を翳らせて、鳥は飛び去った。

街に、いつもの喧騒が、そして灯りが戻った。だが、碧は戻らない。両親は何が起きたのか理解できずに、いつまでも呆然と立ち尽くしていた。

宇宙から見る地球は、どんな宝石よりも美しく、それは今の碧にとってとてもかけがえの無いものに思えた。
「後悔…してる?」
「ううん、してないよ。…綺麗な、惑星(ほし)だといいね」
「…うん、そうだね…」

その日、地球には優しい雨が降った。とても優しい、そして、どこか哀しい雨が…。